NX【に学ぶ】
正体不明のものが姿を表す。正体が判明する。
昨日、NINTENDO SWITCHなる新ハードが発表になった。
人は暴きたがる生き物だからワクワクして沸き立つわけだけれども、想像を上回ることはなかなか難しい。
ネットでは、未だ判然としないLAN端子の有無についてのやり取りの中、「任天堂だぞ!」というトレンディエンジェル風の名言というか迷い言というかが生まれてしまっていた。
任天堂は間違いなく「らしさ」というものを持っている企業で、そのアイデンティティーを保とうとしている、、んだろうけれど、瞬間瞬間語りたがる(語らせられる)ために、時流に流された後、正反対のコメントや行動をすることが多々ある。
私はNOAのレジー社長が発した「インディー開発者に門戸を開放する予定はない」という数年前の発言をちゃんと覚えている。
いつまでも神様気取りなんだね、と心から寂しく思ったのだ。
そして、一年程前の「インディーを愛している」という発言を見たとき、やりきれない気持ちにもさせられている。
なんだか、セックスしたいから愛とか言ってみた風で、辛かったのだ。
(ソフトの谷間は作りませんという発言の後に待ち受けていたのが平坦な砂漠だったことも忘れない)
たまに思うことだが、私が好きだったマリオというのは、甲高い声で叫んだり、頭にプロペラとかつけたりするわけわかんない感じじゃなくて、ちゃんと汗かいてる風の「ちゃんとしたおっさん」だった。
、、らしさを見失ったり、見誤ったりしないように、身に刻みたい。
(と書いてみたけど、自分らしいゲームを作ろうとするとどうしても気持ち悪い見た目とシステムになっていく地獄から今日も逃れられないし、相談相手はもういない)
分解1
カタログ。プログラム。図鑑。
既製品にあまり心を動かされることのない私たちは部品となるものを好んでいた。
何かに感動することがないわけではない。
ただ、作られたもの、与えられたものをそのまま受け取って素直に感動するより、「こうしたらもっといいのにね」と考えてしまう様な、ちょっと人より面倒な性質だったんだろうと思う。
「どう組み合わせたら面白いか」
目の前にあるものは材料として考える。
ある種のカップリング厨である私たちは足し算や掛け算でものを考えて、いちいちそれを披露しあっていた。
昼食に購買で売られるコッペパン一つをとっても、「焼いたらもっと旨くならないかね?」と同意を求められる間柄だった。
上の発言は悪く言えば現状批判的で、良く言えば未来を見ているともいえる発言だが、彼は空気を読む性質ではあったので、常日頃、誰彼の前で批判を繰り広げていたわけではない。
私の前ではそういう愚痴や批判の類ととられるような発言をしてくれていた。
だからこそ私も本音を披露する体をとれたのだ。
彼は電子工作を得意としていて、学校が早く終わる日には電子部品を扱う店、パーツ屋に向かうこともあった。
その時の彼は、大体、何を作るか、作ろうとしているかを伏せたままだった。
自身の行動について語りたがらない彼の性格がよく出ている。
私は小学生時分に作ったラジオから音が出なかったトラウマを抱えているので、パーツの類は最初から無視していて、ジャンクの入れられた箱から再生できる中古品を選別する作業に夢中になってしまう。
彼は欲しいパーツが最初から決まっているので、用事はものの2分で終わってしまう。
私は「動くかなー、、動かなかったら損だなー、、動いたら得だなー」と同じ所を巡っている。
その後ろで彼はのんびりと待つ。
結論が出せずに立ち止まり悩んでいる私。早々に事を終え見守る彼。
周囲から見たら同じ人種に分類されるが、本質の部分に少し違いがある。
私はこのブログを開設するまでに二か月間ほど悩んでいる。
様々なサービスを比較検討して、後悔がないように進める。
電子工作もそうだ。私は失敗を恐れるから、スタートボタンを押さない。
彼は失敗を恐れない性質だった。
私のように恰好つけようという意識がないからだろう。
そんなところが恰好よかった。
彼は躊躇いなく物を分解していく。
直す自信があるからだ。
私にはできないことだ。
だから今、彼はこの世にいないんだろうか。
トージャム アンド アール【に学ぶ】
『Toejam & Earl』(トージャム & アール)は輝かしいSEGAの歴史に輝く、玉石の中の玉石として輝いているまことに輝かしいゲームの中のゲームであると私は思っているのです。
私のゲーム体験、歴史を振り返った時、このゲームの体験はスーパーマリオブラザーズと並ぶ程の価値なのだけれど、どれだけ熱を入れて話しても乾いた「ハイ」という返事しかもらえなかったりするので、その都度、私は生まれる国を間違えたんだろうなぁと思わされてしまいます。
この世にはアーティストが表現した素晴らしいゲーム、サイエンティストが構築した美しいゲーム、何の理想もない糞ったれが出鱈目に放ったクソゲーと呼ばれるゴミや、ひたすら平坦な板のようなものがありますが、ゲームと呼ばれる楽しいそれらには理念と呼ばれるものが大方付随しています。
逆に言えば、理念がないもの、言い表す要素がない(またはネガティブである)ものはゲームとして成立していないことが殆どです。
例えば、喫茶店とコーヒーを売っている店を仕分ける概念があるとして、それは
「喫」
の一文字で表されます。
一文字である必要はありませんが、そのように表せることがゲームの本質といえるもので、ついでに言えば、罰ゲームは
「罰」
の一文字となります。
罰がゲームかどうかは受け手の解釈に寄るのでしょうが、これは人生の解釈にも近い話で、そしてここから「人生はゲームか?」という疑問に繋がっていきますが、掘り下げると後悔しそうなので今日は止めておきます。
、、楽しいこと、びっくりすることを盛り込んでやろうという心意気がゲームという文化を育ててきました。
手つかずの領域を開拓する精神が切り開いてきました。
そういう楽しく新しい遊びに、私たちは育てられました。
そんな面白い遊びを教えてくれたゲーム開発者のお兄ちゃん達も、いまやおっさんを通り越して初老だったり、鬼籍に入られたり、ガンだったりしています。
勿論、私たちだって年を取りますし、いつかいなくなります。
、、運よく私たちは生きているんですね。。
トージャムアンドアールはランダムワールドを歩いて無くした物を探すゲームです。
道中では不可解な出来事に出くわします。いいことより悪いことの方が多いかもしれません。
ゲームオーバーを迎えた際には、毎度のように、「あぁ、なんかいろんな事があったね、、」と思わされます。
このブログを立ち上げた動機、心情に近いので、一本目として取り上げました。
このゲームを一緒に遊んでいた友人は今はもういません。
思い出のゲームです。
ポップと伝統に流れるジャポニスム【デザイン】
丹頂鶴の生息地について調べました。
鳥の模様と国民性の関連について書いてある本を探そうと思います。
有過失のゲームオーバー【ゲームメカニクス】
ブログタイトル下部にナビゲーションを設置するにあたり、カテゴリ創設することにした。 このカテゴリ、「ゲーム開発」には主にゲーム開発時にぶち当たったデザイン上の疑問点などのメモ書きを書き連ねていくことになると思う。 疑問点というと大げさかもしれないような、「どっちがセオリーなのか?」といった問いかけが多くなるだろうという予感がしている。 揺蕩っているもの程、ネットに答えが存在しないからだ。
まずは書き逃げる。最後まで読んでも答えは「ない」。
まずは表題の「有過失のゲームオーバー」。 つまりは「うっかり死」である。
うっかり死はゲームを盛り上げるのか、盛り下げるのか。 端的に言えば、うっかり死の価値が知りたいのである。
ゲームの歴史を振り返れば、体力低下時にサウンドやヘッドアップでアラート表示するゲームが見られる。 それらは死への緊張感を高める。アクション性の高いものでは煽りとしても働く。きっと有効だと思う。 また、例えば将棋やトランプの世界においては王手やページワンといった宣言がある。これらも進行度を示す役割があり、有効だと思う。
とはいえ、納得のいく死orそれ以外を考える時、納得のいった死に方をしたからといって負けは負けとなる。負けは負けである。
そもそも納得のいく死に方をしたゲームを私はあまり愛したことがないような気がする。
これは優等生的なゲーム、親切なゲームという考え方につながるものかもしれないし、クソゲーマニアという一言でバッサリされちゃうものかもしれない。
現状、プレイヤーに優しいゲームは、物足りない彼氏のようなもの。 枠からはみ出ることのない、華のない芸人のようなもの。 そんな風に考える私がいる。
私はうっかり死させてくるような酷いゲーム程思い出に残してしまうし、なんでよ!と声を上げてしまうこともゲームの盛り上げにつながる要素と考えている、、気がする。
ので困っている。
山椒をウナギに振る人と振らない人の数を数えたらいいのだろうか。
コメントが切実に欲しい。
似て非なる人
趣味はゲーム、という人間は少なくない。
ゲームとは、そもそも楽しく遊ぶもの。
また、楽しくプレイしてもらうためにゲームは作られる。そんな相互関係にある。
遊ばれたゲームは人の思い出になる。過去になる。
大体そこで終わる。
「なんで面白かったの?」「なんでゲームは楽しいの?」、そんな考えに至らせる作品は少ない。そして、そんな面倒臭いことを考えるゲーム好きも少ない。
朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯。
毎度毎度、美味しいね(ときに美味しくないね)と誰もが思う。
そんな風にゲームも消費される。
〇〇プレイしたよ、△△クリアしたよ。
ゲーム好きの会話は大体そこから始まり、絶賛やら批難やら次回作への夢想やらに向かって終わる。
そんな中、「ああ、この人はちゃんとしてる」。言い換えれば「流してない」。そう思わされた出来事があった。
料理には嗜好がある。料理の仕方には志向もある。
世の中には数え切れない献立があって、レシピがあって、、○○風〜なんて言い出したらキリがないほどの広がりがある。
丁度、究極とか至高とか、そういう言葉が流行った頃だったかもしれない。
彼は「楽しかった、美味しかった」といったような端的な感想を残す人ではなく、かと言って驕った食通のような遣り口でもなく、、とはいえ職人のような合理とも、レビュアーともまた違って。。
行動に対するリアクションとして、まるで自販機がジュースとお釣りを吐き出すように、「こうしたほうがいいんじゃね?」と喋る人だったように思う。 コンサル的といえばそんな風にも思える。。とはいえその改善提案がどこに向かっているかといえば、自分がこうして欲しいからといったような、真っ直ぐに己の欲求、理想に向かっている人。
自分のこだわりの深さをよく知っていた彼は、自分という客を満足させることにも自覚的で、良く言えば現状に満足しない(させられない)生き方をしていた。
彼は広がりよりも高みを目指していて、私はそんなところが好きだった。
私達は似ている、そんな風に思っていたからこそすれ違ったりもした。
そんな彼がゲームを作っていた。
それは中々完成しなかった。
当然のことだ。
2016年の今、彼の生んだゲームの感想はネットに転がっている。
彼が生んだゲームはちゃんと世の中に届けられた。
しかし彼は消えてなくなった。
生き様と家、形
彼の家は広かった。独り暮らしには不必要な2階建てで、階段には身体を鍛えるための懸垂用の鉄棒がDIY感剥き出しで設置されていた。
DIYは私と彼を近づけたキーワードだったと思う。
必要に駆られてのDIY。理想に叶うための物作り。
自分に必要なものが世の中に見つからず、周囲から理解されない私達。
無駄にシビアすぎたのだろうと思う。
今でこそ、こだわること=オシャレといったように概念が結びついているが、もう少し軽薄だった少し前の日本は違った。
変わり者、変人、変態に対してとてもとても冷たかった。
ビンテージのジーンズやスニーカー。シルバーのアクセ。ブランドバッグ。理解される趣味、そして理解されない趣味。
既成品の作られた価値を崇める消費の趣味の美徳と、逆に、認められた価値になびかない、面倒な私達、、は、全くの無価値だった。
私達の無駄なこだわりを培ったものが一体何だったのか。未だに判らない。
理由も判然としないからか、世間的に価値のある物を手にしても無言ですっとぼけてしまう私達。
当然のように現世とそりが悪かった。
世の中には沢山の人がいる。スムーズに世の中が動くため、目を瞑ること、なあなあにする、、そんな潤滑油がある。
私はとにかく情報を摂取していく体質で、愛想笑いとおためごかしの術を身につけ、誰とでも会話ができた。要するに、上手だった。
しかし、彼は下手だった。
彼と私が出会った頃、まだ世の中はオタクが迫害されていた時代で、ゲームセンターでいえばUFOキャッチャーは脇役。プリクラなんてものはそもそもまだなかった頃。
彼はテレビも見ない、ラジオもそんなに聞かない、手に取る本は自分の興味の向いたものだけ。
インターネットも引かれていない頃の、曲がることなくすくすくと育った、純粋なマニアック。
彼はゲームを作っていた。 私もゲームを作っていた。 二人とも、どちらかといえば仕方なくゲームを作っていた。