ゲームクリエイターの生と死

【荒んだアーティスト、デザイナー、クリエイターのためのガイドブック】 悲しい表現が含まれています。

星の数

彼は絵を描く人で、一点を見つめる時間が長かった。
私は生き急いでいて、留まることが好きではなかった。

行き急ぐ理由は、今この瞬間に生きている実感がないからに他ならない。

私は、私がテレビゲームの世界に取り憑かれた理由について時々考える。

子供はシンプルな頭で物を考える。好き、嫌い、怖い。綺麗とか汚いだとか。

テレビの砂嵐を過去のあなたはどう捉えていただろうか。
子供の私は一人きりの部屋で、その動いているような止まっているような嵐に吸い込まれそうになっていたことを今でも思い出す。

その吸い込まれそうな砂嵐から目を逸らすことは容易い。しかし、後ろを振り向いてもそこには誰もいない。だから、誰かに伝えたりもできない。

一人抱える思いだから消化できずにいるのだろう。

車通りに面していない私の実家は屋内にペットがいるわけでもないから、強風でもない限りは何かが動くでもなく、、とても静かだった。

時計の針の音を聞きながら空想するのも好きだったが、そのうち飽きて、主婦向けの興味のない番組にはやはり関心もないから、惰性で新鮮味のないファミコンを始めるのが常だった。

新鮮味のない体験といっても、自分の好きなソフトを選んで始めるわけだから、そのゲームの世界はやはり好きな世界なのだ。

電源を入れてスタートを押せば、真っ黒な宇宙に星が流れていく。

夜の星より綺麗だと思っていた。

楽しいね、優しいね、怖いね、といった小学生の小学生並みの感情の世界に、ある日、訪れたものがもたらした事。

美しくて見惚れるという行為。

その頃の私は現実より仮想空間のほうが絶対に好きだったし、8bitの作り物のアートの方が美しいとまで思ってもいたと思う。

何より、そこは不愉快な雑音のない世界だった。だからこそいつでもそこに行けるように、、ファミコンが取り上げられたりしないようにと思っていたから、、勉強もそれなりにちゃんとしていた。

そんな秋。小中学生向けの美術展のようなものに足を運ぶと、そのシューティングゲームの画面を寸分違わず画用紙に模写したものが表彰されていた。私は同じ目線で物を見ている人がいるということに深く感動して、その絵の前にずっと立ち尽くしてしまった。

その日から、ゲームのキャラを描くという行為を始める。

ただ、私には絵の才能が全くなく、どういうものが美しいのかということも全くわからず、、幸か不幸か、友人関係含め、絵が上手い人が身の回りにいなかったこともあって、、方眼紙ノートをわざわざ買ってはみたものの無駄となり、その頭が良く見えそうな表紙のノートは、ダンジョンのマッピング用ノート、パスワード記録帳、攻略メモという、とてもとても少年らしい使われ方をされることになり、奥に仕舞われた。

時は流れ。

彼は人の絵を見るたびに、こうじゃない?と指摘できるセンスを持った人だった。

見たものを絵に描いて説明できる人でもあった。

彼は動きのあるものに特段興味を示していた。

ついには、描いた顔のパーツをバラバラにして、プログラミングでアニメーションを作り始めた。

私はその行動を見ていた。

動くものが好きで、動かしたがる彼と、動くものが好きで、それをただ見ている私。

このあたりから友人である彼のことを、私は先生と呼ぶようになる。

絵が描けるようになりたかった私は「先生、質問」とあれこれぶつけてみるのだが、彼の説明は絵を描ける人の目線からの説明なので、特別参考にもならず、私には良くわからないものだった。

けれど、美しいものをお互いに、同じように見ることはできたのだ。

デジタルカメラがこの世に誕生してから、私と彼のセンスは似ていたのだなと益々思うようになる。

ただ、彼の配色は、あまり明るい色ではなかった。

私は、青い空に憧れを持ちつつも、夜空の方に心を惹かれる人間だった。

彼がどうだったのかは知らない。 聞けないということは不便なことだなと思うが、振り返ることのできる過去は現実にあった過去だけだ。

今更仕方ないのだろうと思う諦めのような気持ちと後悔がブログ更新のたびに増えていく。

その感情の数が星の数を超えた砂嵐のようになる日がいつか来るのだろうか。

感情を敷き詰めたら真っ白になるのだろうか。

NINTENDO SWITCH【に学ぶ】

先の、NX【に学ぶ】では期待感と信用について書きました。

先を全く考えずにメモの延長で書いているため、書き残せなかった(逆に言えば脳内 に残った)連想した事柄というのが残尿感のようにあります。

コメントでも付けばそこに書くんでしょうが、あまりレスポンスには期待してない事もあり、書きそびれたことはさっさと書いたほうが精神衛生に良い筈と思ったこともあり、、またまたずらずらと書いていこうと思います。

先程、redditに筑摩書房刊「読んでいない本について堂々と語る方法」の話題が上がっていました。

こちらは世界的ベストセラーだそうなんですが、タイトルを見ただけで、「売れるよね」と多くの方が感じられたと思います。

大胆さがあって、知的な問いかけとして成立していて、馬鹿馬鹿しさしさもあって。

ハウツー本は狭い所に売っていく本だと思っていますが、本屋の客ほぼ全員を対象にしてるところも凄いなと思います。

このように、例外を作らず、間口を広くしていくことがヒットの法則なのでしょう。。

と書いたところで、ニンテンドーの話に戻します。。

「これがニンテンドーの新ハード、スイッチだー!!」

ドーン!!

「初出し!!」

としたところで、、、そこでネタばらししちゃうのって手法的にどうなんでしょうと思うんですがどうなんでしょう???

(思考の流れ)
…ああ、、スイッチ。
→なる程、スイッチ。
→こういう理由でスイッチ。。(終)
となりますよね。。

普通、納得と驚きって共存しないと思うんですよね。。。

ちなみにWiiは4台買いました。
うち1台は改造して車輪をつけて、バッテリー駆動にして、プロジェクターで外で遊べるようにして一緒に散歩したりしていました(ド変態)

最高に夢を見せてくれたハードでしたね。。
(私は打ち上げ花火愛好家です)

ちなみにWii Uの時は、「これは売れない断言。絶対売れない」と会社の開発者チャットに書いたせいで、一部の方との折り合いが大変悪くなりました。。

そういう反省もあるのであまり変なことは書かないようにしようと思うんですが、、

これが全部であって欲しくない。

そんな気持ちです。

2人プレイの楽しさを思い出させてくれそうな所はいいですよね。

3DS用ショベルナイト、2人プレイはDLCです別売ですamiiboです人形ですって聞いた時は呆れを通り越して口から呪詛(書けないレベル)が出たので。

追記:人をハブにしたらアンチが生まれます。そんな事してたら先はありません。私は面白そうと気にかけてくれた全ての人が楽しかったと言ってくれるゲームこそが大正義と思っていて、ホレ乗り越えてみろや!みたいな体育会先輩風のゲームが脇に行った昨今の状況が割と好きです。

NX【に学ぶ】

正体不明のものが姿を表す。正体が判明する。

昨日、NINTENDO SWITCHなる新ハードが発表になった。

人は暴きたがる生き物だからワクワクして沸き立つわけだけれども、想像を上回ることはなかなか難しい。

ネットでは、未だ判然としないLAN端子の有無についてのやり取りの中、「任天堂だぞ!」というトレンディエンジェル風の名言というか迷い言というかが生まれてしまっていた。

任天堂は間違いなく「らしさ」というものを持っている企業で、そのアイデンティティーを保とうとしている、、んだろうけれど、瞬間瞬間語りたがる(語らせられる)ために、時流に流された後、正反対のコメントや行動をすることが多々ある。

私はNOAのレジー社長が発した「インディー開発者に門戸を開放する予定はない」という数年前の発言をちゃんと覚えている。

いつまでも神様気取りなんだね、と心から寂しく思ったのだ。

そして、一年程前の「インディーを愛している」という発言を見たとき、やりきれない気持ちにもさせられている。

なんだか、セックスしたいから愛とか言ってみた風で、辛かったのだ。

(ソフトの谷間は作りませんという発言の後に待ち受けていたのが平坦な砂漠だったことも忘れない)

たまに思うことだが、私が好きだったマリオというのは、甲高い声で叫んだり、頭にプロペラとかつけたりするわけわかんない感じじゃなくて、ちゃんと汗かいてる風の「ちゃんとしたおっさん」だった。

、、らしさを見失ったり、見誤ったりしないように、身に刻みたい。

(と書いてみたけど、自分らしいゲームを作ろうとするとどうしても気持ち悪い見た目とシステムになっていく地獄から今日も逃れられないし、相談相手はもういない)

分解1

カタログ。プログラム。図鑑。
既製品にあまり心を動かされることのない私たちは部品となるものを好んでいた。

何かに感動することがないわけではない。
ただ、作られたもの、与えられたものをそのまま受け取って素直に感動するより、「こうしたらもっといいのにね」と考えてしまう様な、ちょっと人より面倒な性質だったんだろうと思う。

「どう組み合わせたら面白いか」
目の前にあるものは材料として考える。
ある種のカップリング厨である私たちは足し算や掛け算でものを考えて、いちいちそれを披露しあっていた。

昼食に購買で売られるコッペパン一つをとっても、「焼いたらもっと旨くならないかね?」と同意を求められる間柄だった。
上の発言は悪く言えば現状批判的で、良く言えば未来を見ているともいえる発言だが、彼は空気を読む性質ではあったので、常日頃、誰彼の前で批判を繰り広げていたわけではない。
私の前ではそういう愚痴や批判の類ととられるような発言をしてくれていた。 だからこそ私も本音を披露する体をとれたのだ。

彼は電子工作を得意としていて、学校が早く終わる日には電子部品を扱う店、パーツ屋に向かうこともあった。
その時の彼は、大体、何を作るか、作ろうとしているかを伏せたままだった。 自身の行動について語りたがらない彼の性格がよく出ている。

私は小学生時分に作ったラジオから音が出なかったトラウマを抱えているので、パーツの類は最初から無視していて、ジャンクの入れられた箱から再生できる中古品を選別する作業に夢中になってしまう。
彼は欲しいパーツが最初から決まっているので、用事はものの2分で終わってしまう。

私は「動くかなー、、動かなかったら損だなー、、動いたら得だなー」と同じ所を巡っている。
その後ろで彼はのんびりと待つ。

結論が出せずに立ち止まり悩んでいる私。早々に事を終え見守る彼。
周囲から見たら同じ人種に分類されるが、本質の部分に少し違いがある。

私はこのブログを開設するまでに二か月間ほど悩んでいる。
様々なサービスを比較検討して、後悔がないように進める。
電子工作もそうだ。私は失敗を恐れるから、スタートボタンを押さない。

彼は失敗を恐れない性質だった。
私のように恰好つけようという意識がないからだろう。

そんなところが恰好よかった。

彼は躊躇いなく物を分解していく。
直す自信があるからだ。
私にはできないことだ。

だから今、彼はこの世にいないんだろうか。

トージャム アンド アール【に学ぶ】

『Toejam & Earl』(トージャム & アール)は輝かしいSEGAの歴史に輝く、玉石の中の玉石として輝いているまことに輝かしいゲームの中のゲームであると私は思っているのです。

私のゲーム体験、歴史を振り返った時、このゲームの体験はスーパーマリオブラザーズと並ぶ程の価値なのだけれど、どれだけ熱を入れて話しても乾いた「ハイ」という返事しかもらえなかったりするので、その都度、私は生まれる国を間違えたんだろうなぁと思わされてしまいます。

この世にはアーティストが表現した素晴らしいゲーム、サイエンティストが構築した美しいゲーム、何の理想もない糞ったれが出鱈目に放ったクソゲーと呼ばれるゴミや、ひたすら平坦な板のようなものがありますが、ゲームと呼ばれる楽しいそれらには理念と呼ばれるものが大方付随しています。

逆に言えば、理念がないもの、言い表す要素がない(またはネガティブである)ものはゲームとして成立していないことが殆どです。

例えば、喫茶店とコーヒーを売っている店を仕分ける概念があるとして、それは

「喫」

の一文字で表されます。

一文字である必要はありませんが、そのように表せることがゲームの本質といえるもので、ついでに言えば、罰ゲームは

「罰」

の一文字となります。

罰がゲームかどうかは受け手の解釈に寄るのでしょうが、これは人生の解釈にも近い話で、そしてここから「人生はゲームか?」という疑問に繋がっていきますが、掘り下げると後悔しそうなので今日は止めておきます。

、、楽しいこと、びっくりすることを盛り込んでやろうという心意気がゲームという文化を育ててきました。

手つかずの領域を開拓する精神が切り開いてきました。

そういう楽しく新しい遊びに、私たちは育てられました。

そんな面白い遊びを教えてくれたゲーム開発者のお兄ちゃん達も、いまやおっさんを通り越して初老だったり、鬼籍に入られたり、ガンだったりしています。

勿論、私たちだって年を取りますし、いつかいなくなります。

、、運よく私たちは生きているんですね。。

トージャムアンドアールはランダムワールドを歩いて無くした物を探すゲームです。

道中では不可解な出来事に出くわします。いいことより悪いことの方が多いかもしれません。

ゲームオーバーを迎えた際には、毎度のように、「あぁ、なんかいろんな事があったね、、」と思わされます。

このブログを立ち上げた動機、心情に近いので、一本目として取り上げました。

このゲームを一緒に遊んでいた友人は今はもういません。

思い出のゲームです。

有過失のゲームオーバー【ゲームメカニクス】

ブログタイトル下部にナビゲーションを設置するにあたり、カテゴリ創設することにした。 このカテゴリ、「ゲーム開発」には主にゲーム開発時にぶち当たったデザイン上の疑問点などのメモ書きを書き連ねていくことになると思う。 疑問点というと大げさかもしれないような、「どっちがセオリーなのか?」といった問いかけが多くなるだろうという予感がしている。 揺蕩っているもの程、ネットに答えが存在しないからだ。

まずは書き逃げる。最後まで読んでも答えは「ない」。

まずは表題の「有過失のゲームオーバー」。 つまりは「うっかり死」である。

うっかり死はゲームを盛り上げるのか、盛り下げるのか。 端的に言えば、うっかり死の価値が知りたいのである。

ゲームの歴史を振り返れば、体力低下時にサウンドやヘッドアップでアラート表示するゲームが見られる。 それらは死への緊張感を高める。アクション性の高いものでは煽りとしても働く。きっと有効だと思う。 また、例えば将棋やトランプの世界においては王手やページワンといった宣言がある。これらも進行度を示す役割があり、有効だと思う。

とはいえ、納得のいく死orそれ以外を考える時、納得のいった死に方をしたからといって負けは負けとなる。負けは負けである。

そもそも納得のいく死に方をしたゲームを私はあまり愛したことがないような気がする。

これは優等生的なゲーム、親切なゲームという考え方につながるものかもしれないし、クソゲーマニアという一言でバッサリされちゃうものかもしれない。

現状、プレイヤーに優しいゲームは、物足りない彼氏のようなもの。 枠からはみ出ることのない、華のない芸人のようなもの。 そんな風に考える私がいる。

私はうっかり死させてくるような酷いゲーム程思い出に残してしまうし、なんでよ!と声を上げてしまうこともゲームの盛り上げにつながる要素と考えている、、気がする。

ので困っている。

山椒をウナギに振る人と振らない人の数を数えたらいいのだろうか。

コメントが切実に欲しい。