ゲームクリエイターの生と死

【荒んだアーティスト、デザイナー、クリエイターのためのガイドブック】 悲しい表現が含まれています。

似て非なる人

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趣味はゲーム、という人間は少なくない。
ゲームとは、そもそも楽しく遊ぶもの。 また、楽しくプレイしてもらうためにゲームは作られる。そんな相互関係にある。

遊ばれたゲームは人の思い出になる。過去になる。
大体そこで終わる。

「なんで面白かったの?」「なんでゲームは楽しいの?」、そんな考えに至らせる作品は少ない。そして、そんな面倒臭いことを考えるゲーム好きも少ない。

朝ご飯、昼ご飯、晩ご飯。
毎度毎度、美味しいね(ときに美味しくないね)と誰もが思う。
そんな風にゲームも消費される。
〇〇プレイしたよ、△△クリアしたよ。
ゲーム好きの会話は大体そこから始まり、絶賛やら批難やら次回作への夢想やらに向かって終わる。

そんな中、「ああ、この人はちゃんとしてる」。言い換えれば「流してない」。そう思わされた出来事があった。

料理には嗜好がある。料理の仕方には志向もある。
世の中には数え切れない献立があって、レシピがあって、、○○風〜なんて言い出したらキリがないほどの広がりがある。
丁度、究極とか至高とか、そういう言葉が流行った頃だったかもしれない。 彼は「楽しかった、美味しかった」といったような端的な感想を残す人ではなく、かと言って驕った食通のような遣り口でもなく、、とはいえ職人のような合理とも、レビュアーともまた違って。。

行動に対するリアクションとして、まるで自販機がジュースとお釣りを吐き出すように、「こうしたほうがいいんじゃね?」と喋る人だったように思う。 コンサル的といえばそんな風にも思える。。とはいえその改善提案がどこに向かっているかといえば、自分がこうして欲しいからといったような、真っ直ぐに己の欲求、理想に向かっている人。

自分のこだわりの深さをよく知っていた彼は、自分という客を満足させることにも自覚的で、良く言えば現状に満足しない(させられない)生き方をしていた。

彼は広がりよりも高みを目指していて、私はそんなところが好きだった。
私達は似ている、そんな風に思っていたからこそすれ違ったりもした。

そんな彼がゲームを作っていた。
それは中々完成しなかった。
当然のことだ。

2016年の今、彼の生んだゲームの感想はネットに転がっている。

彼が生んだゲームはちゃんと世の中に届けられた。

しかし彼は消えてなくなった。