ストーカー【に学ぶ】[1]
『ストーカー 逃げきれぬ愛』は1997年の読売テレビ制作のドラマです。 この作品は数年に一度見返したくなる傑作で、DVD化されていないこともあり、HDDに永久保存扱いで保存しています。
クリスマスイブにいらない花束を通りすがりのしょぼくれた男(渡部篤郎)に差し出してしまった女(高岡早紀)が、ニヤニヤ8割、癇癪2割でひたすら粘着される、といった特筆すべき筋はない全10話のスリラーです。
特筆すべき筋がないというのを分かりやすく書けば、こういうことです。
「キャー。このおじさん変なんです」
「変なおじさんってか。だっふんだ」
志村けんの変なおじさん術。この術を全10話のドラマ仕立てにした感じです。
そもそも、変なおじさんというのは構成で面白く落としているだけで、本質はホラーです。
変なおじさんのバックボーンは誰も知りません。 異常者であるということだけが明らかで、それ以外は不明。 正体不明の異常者が付け狙ってくる話というのが本質ですから、普通に描けばホラーとして仕上がる筈なのですが、緊張と緩和のパラメータ調整をすることで本来ホラーである筈のシチュエーションを日常化させ、コメディーへと変化させています。
変なおじさんは本来、身に迫る脅威を与える恐ろしい存在な筈なのです。 ですが、B級エロというオブラートで包むことにより、脅威として捉える人を減らすことに成功しているのです。
つまり、、変なおじさんは(自覚的であるかどうかはさておき)舐められるポジションを用いて、自己弁護する・されるスタンスを獲得しているのですね。
話を戻しまして。
ストーカーとはいったい何なのか。考えたことはありますでしょうか。 ストーカーの恐ろしさとはいったい何なのか。考えたことはありますでしょうか。
ストーカーとは、付き纏う人のことを指します。
つまり、、ストーカーと変なおじさんとの違いは「継続性」にあるのです。
ばったり出会った変なおじさんも普通に気持ち悪いんですが、、それが継続していることに恐ろしさがあるわけです。
ではここで表題を読み返してみてください。 『ストーカー 逃げきれぬ愛』です 「逃げ切れない、、」んですね。
被害者サイドが「逃げきれないかも」と脳裏に描いてしまった瞬間、加害者である変なおじさんはストーカーとなるのです。
このドラマでは「逃げきれないですよ」ということを視聴者に知らせるために、まず第一話の冒頭から飛び降り自殺者を出しています。
「大事にしてたクラリネット壊しちゃったよ、、」と思っていたかは定かではありませんが、主人公である渡部篤郎は肩を落としています。 そして、そのタイミングで優しさを見せてしまったのが、もう一人の主人公である高岡早紀です。
あーこの人は優しい人だ、この人は僕の理解者だ、この人なら僕のすべてを分かってくれる、これは運命だ、分かってくれないなんておかしい、運命から背こうとするなんておかしなことだ、私はあなたとの運命のためにその障害を取り除こうと思うよ、、とまぁそんな風にストーカーは悪気なくエスカレートしていきます。
このドラマはその流れがとてもよく表現されていて、警戒を強めた被害者サイドは対抗策を用意し、加害者の企みを打破します(カタルシス)。
その後、加害者は対抗策の対抗策を思いつき、被害者サイドを打破します(これもまたカタルシス)。
まるで均衡しているスポーツのようです。
バランスというものの重要性を再認識したい。そういう時に見返したくなるとてもよく出来たドラマです。
坂本美雨のデビュー曲でもあるテーマ曲、坂本龍一 featuring Sister M - The Other Side of Loveも素晴らしくマッチしていました。 「生まれてこなければ本当はよかったの?」 、、視聴者の気持ちを代弁した素晴らしい一文です。
(ストーカーが生まれてこない方がいいというのは明らか。また、こんな状況に追い込まれるなら生まれてきたくなんかなかったわ、とも)
私は、ここ数年ストーカーによる被害を受けているのですが、この状況をそこそこ面白がっています。
勿論、苛立ちや腹立たしさをそれはそれは長い間抱えておりましたし、今でも、理不尽過ぎる言い分に心をかき乱されることは多々あります。
それでも、人は慣れるんですね。
もし相手が一流のストーカーであったなら、こちらの対抗策を上回る対抗策を用意して私を飛び降り自殺でもするくらいにまで追い詰めてしまうのでしょうが、相手は並のストーカーです。変なおばさんです。
先にストーカーのことをホラーと言い表しましたが、、喜ばしいことに私はホラー映画の主人公ではないのです。 どちらかといえばホラーゲームの主人公に近い存在なのです。
例えば、私が魔界村の主人公、アーサーだったとして。 私にはこのゲームの目的である「姫を救う」という任務が課せられていないので、前に進む必要がないんです。 ゾンビがいたら距離を取ればいいんです。 距離を取りながら「ゾンビキモイなー」とでも思ってれば、ゾンビはそのうち土に返っていくんです。
また、私がバイオハザードの主人公、クリスなりレオンだったとして。 私は変な洋館なり村なりに入っちゃっただけで、変な石柱を動かして謎を解いたりしなくていいんです。 むしろ、「ゾンビ、ワンパターンで頭悪いな」とか「せっかくだから罠仕掛けとくか」とか「あ、罠にかかってる。やっぱり頭悪いな」とか、、決して神ゲーではないんですけど、試行錯誤するクラフトタイプのサバイバルゲームを無料で貰ったような気分と言えなくもないんですね。
(もちろん、全てをポジティブに捉えようとする間はそんな風に思うことも 可能 というだけで、被害は被害と認識できているので、難易度が急上昇したり、回復アイテムが不足したら180度転換して闇落ちする可能性も重々にあるなぁ等々思いますし、主人公キャラと自分を重ね合わせない日も勿論あって、そんな日は飯が砂に思えたり、空気を毒素のように感じたりもします)
えー。 映画やドラマの主人公は敵に倒されることや敵を倒すことが運命づけられています。 映画やドラマの制作者は、その生き死にのドラマから視聴者に何かを訴えようとします。
私はこのブログから皆さんに何を訴えたいのでしょうか。 エンタメとして成立させるつもりであればもう少し笑えるように書こうとも思うのですが、今回はそういう気分ともまた違うみたいです。
SOSですかね。 もしかしたらどこかに縦読みとか仕込んであるかもしれません。 探してみてください(嘘ですありません)
今すぐ警察に行くことも勿論できますし、WEBを用いて相手を社会的に抹殺することも不可能ではありません。
正直、どうしようかなと思っているところです。
そんなにこのゲームに夢中になりたくないんだよなぁと思う気持ちがあって、一人で抱えるには重いなぁと思う気持ちから吐き出し口を求めていて、、こういうことを140文字で書くと普段から統合失調症全開で空リプ攻撃しているストーカーの被害者アピールが激しさを増して私も禿げそうになるので今日のところはブログに。
ブログに書いても解決しないようなら、、私の心の乱れが落ち着かないようなら、、今度は絵馬にでも書いて奉納し、その画像をジオタグ付きでストーカーの居住している地域のまちBBSやジモティーやメルカリのアッテや爆サイ.comに投下する遊びでもしてみようと思いましたが、ここまでやると私がストーカー扱いされてしまいます。
、、やっぱクソゲーです、これ。
、、クソゲーは窓からフリスビーしたい派ですが、今日投げたら勢い余って自分まで落ちそうな気がします。
お酒でも飲んで全部忘れようか。
おわり。
追伸:毎度長文で書いてしまっています。この記事は2002年のアメリカ映画、監督マーク・ロマネク、出演ロビン・ウィリアムズのストーカー(原題:One Hour Photo)について書く予定でしたが、なぜか一行も触れることができませんでした。
思い通りにならない現実って楽しいですね。。